霞を食べる日

穏やかに生きるための日記帳

目が覚めたおたくのはなし

‪無いと生きていけないと思ってたものが本当に無くなって、それでも何の問題もなく生きていけることに気付いてしまったのがコロナの最大の影響でした。

 

前の記事で夢から覚めかけてる〜〜〜しくしくしく〜〜〜みたいなことを書いてたんですが、ここ最近はすんなり、あっいま完全に素面だわ目覚ましてるわ、って思えるくらいに落ち着いています。

 

‪最初はやだやだやだーーー!ってしがみついてたんですけど、ある時点から「あっもう大丈夫なのかも」って思うようになって(それが丁度前の記事書いた頃)、今は無いのが普通になった。

 

推しのおたくを辞めたいわけじゃないんですけど、結局どこのクラファンにもお金は出せなかったし、何なら出演した配信劇にも興味が持てず。

いや興味が持てず、っていうのはちょっと違うな。

興味はありました。でも配信という形式が好きではなく、結果としてお金を払いませんでした。

 

少し前にTwitter

「休みをとって劇場に足を運ぶ、そして観劇をして推しの姿を見る、そのためにお金を払うことに価値を見出していた」

的な呟きを目にしたんですが、ほんとそれなすぎて1000000回くらい頷きました。

わたしは"推しが目の前で仕事をしている空間"と"目の前で仕事をしている推しの姿"が好きで、"その空間と、その空間を大切にしている推しに対してお金を払う"ということ、"その一連の行動の為に自分の何かを犠牲にする"ということから満足感を得ていたんだろうなと思います。

 

こういう書き方をすると「推しのことを"配信じゃ本気で仕事しないダメなやつ"だって思ってるんですか!?」みたいに言われそうですが、そんなことはないです。

これはただの地方在住おたくであるわたしの主観が100%なので、推しの仕事ぶりがどうこうとかそんなことを同じラインで述べるのはめちゃめちゃナンセンスだと思うし。

 

ただわたしにとっては、それが生であっても録画であっても、画面を通して配信されるエンターテインメントに支払う5000円はちょっとばかり贅沢すぎる物だったということです。かね?わからん。

円盤に払う1万円はなんてことないのに不思議。例えばこの期間中にわたしが見なかった作品が1万円で円盤として販売されるのであれば、わたしは喜んでお金を払うと思います。で、1回も再生しなかったりするんですよね。わははははは

何が違うんだろう。いま見なくてもそのうちいつでも何度でも見れるっていう安心感かな。わかんないな。

 

 

でも正直、ちょっとホッとしてる自分もいます。

わたしは推しのことが俳優としても人としても本当に好きでそこに関しては今でもブレてないんですが、趣味にお金も時間もメンタル面も、文字通り全てを費やすことで現実から目を背けている部分は確実にあって、もう自分ではどこを引き際にすればいいのかが分からなかったんですね。

いま彼氏いないんだっけ?好きな人は?結婚しないの?とかって聞かれるたびに「いいのいいの、わたしには推しがいるし!」って言い返してたし。そろそろやべえなあと思いつつ、半分本気だったし。

それが強制的に何も無い環境に置かれることで、「だって仕方ないじゃん物理的に遠のいちゃったんだから」って言い訳しながら方向転換できた。

これはあんまりコロナ関係ないけど、仮に今までのわたしみたいに「推しがいるから今は彼氏とか結婚とかいいの!」みたいに言い続けたとして、そのうちガチ恋になっちゃって、そんでやっぱり何も起こらなくて、そのうち推しがカノバレしたり結婚したりして……ってなったとき、果たしてわたしに何が残るのかっていうと、多分もう思い出しかないんですよね。それはやっぱ、ちょっとつらすぎませんか。モノより思い出っていうけど、多少はモノも必要じゃないですか。少なくともわたしには必要です。

年齢もお金も気持ちもぜーーーんぶギリギリになってもうどうしようもなくなってから、

あんなに好きだったのに!わたしは全部費やしたのに!どうしてくれるの!

って思っちゃいそうだもん。怖い怖い怖すぎる。こんなの推しにも自分にも悪影響しか及ぼさん。

品行方正でカノバレなんてしたこともない推しの姿勢に甘えてたんですね。気付いてはいたけど、考えるとしんどいから避けてきた。

どっかで目を覚ましたいっていう気持ちと、自分から目を覚ましにいきたくはないっていう気持ちの真ん中にいたから、結果的にこのタイミングで頭の中整理できてよかったなとは思います。

今は久しぶりに普通に恋愛したいし、結婚もしたいよね〜〜〜わかる〜〜〜!できるかどうかは別として〜〜〜!

 

何かこう、推しのことが好きなら恋愛なんて二の次!彼氏のいるおたく!?随分余裕だな!?って思ってたとこは、正直ある。

まあ周りのおたくが結婚して子供ができて泣く泣く現場離れたりしてるのを見てたせいもあるけど…うん…

 

 

たぶん夏秋頃から状況が変わり始めても、前まで程にはお金も使わないんじゃないかなあ。

 

世間からするとわたしは既に舞台のおたくでも推しのおたくでもない奴なのかもしれません。

でも嫌いになったわけではないし、興味を失ったわけでもない。

あー舞台見たいなー推しの演技見たいなーって普通に思うけど、前ほど「無理!!!有り金全部払ってでも東京いく!!!No推しNoLIFE!!!」みたいな感覚にはならない、というかもうなれない気がする。最初にも書いたけど、舞台がなくても推しが目の前にいなくても生きていけるって分かっちゃったし。

 

過去の記事読み直さないタイプなので、重複してたりいやいや言ってること全然違うじゃんってこともいろいろあると思うけど、今のわたしのおたくメンタルはこんな感じ。

まあ、どんな形でもいいよね。うん。

とりあえず100%の安全が保証されるまでは遠征は控えたい…かなあ…。でも推しには会いたい…。

もやもやはつきませんね。

では。

 

コロナ禍で魔法が解けそうなおたくのはなし

こんにちは、皆様お元気でお過ごしですか。

わたしは全く外出していないせいで肌が恐ろしくなまっ白いです。できないとなると日焼けすら恋しいので人間って欲深いです。海行きたいよう。

 

おたくの魔法が解けそうなおたく

さて、推しに会えない期間が過去最長記録を更新しました。瀕死です。

推しの先のお仕事は決まっているんですが本当に開催されるかも分からないため、予定という予定はありません。

 

わたしは少々心が脆いタイプなので、無意味な発券を重ねるうちにメンタルがかなりザラついてしまいました。

この状況で推しのことを考えていると余計にしんどくなってしまうのが目に見えているので、最近は出演作を見直したり雑誌を読み直したりを控えるようにしています。物理的に推しと距離を置いています。

 

もちろん相変わらず推しのことはちょ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜大好きなんですが、だからこそこれ以上頭の中で勝手に推し像を作り上げてしまうのが嫌で…このまま1人で推しを摂取し続けると次の現場が決まったときに距離感がバグりそうな気がするんですよね(あくまでわたしはです)

 

だからって部屋の中のグッズを整理しました!とかSNS追うのやめました!とか、FC退会しました!とかは当然ないです。できるわけないやい。毎日めっちゃ好きだぞ推し。

ただ、推しのことを考えすぎないように、他の趣味を思い出して過ごしています。

たとえば好きなスポーツの過去の試合を見直したり好きなチームのグッズを改めて購入し直したり、好きなアーティストのライブ映像を見直したり。

あと超どうでもいい話ですが、ネイルを派手色に戻しました。推し事のときは絶対できないけど(最近の服装に合わない)自粛期間だしたまにはいっか〜〜〜!って、そしたらもう、これがすんごい落ち着く。爪先を見るたびにふふふってなります。ころころ色変えたりして、これはセルフネイルだからこその楽しみですね。すき。

 

とにかくバランスよく楽しんでいます。

「そうだそうだこういうのが好きな一面もあったよね」って過去の自分と同窓会開いてるような気分です。

前の記事とは反対向きの気持ちなんですが、結局ここに落ち着いてしまいました。

 

 

で、タイトル。

前にも書きましたが、わたしは遠征民なので推し事=遠征です。

この期間、現場がないのでもちろん遠征もないじゃないですか。そしたらすっっっっごいお金が浮くんですよ……!!!

で、それで最近気付いてしまったんですが、普段のわたし、もしかして推し事に金使いすぎだったんじゃ……???ない……???

 

これまで給料のうち自由に使える最大限の額を遠征に費やしていたわけなんですが(笑うとこ)、今はその浮いた額の7割を貯金に回して3割でお買い物したりちょっといい物を食べたりしています。それで十分リッチ(個人比較)な生活送れてるんですよ…これはこれですんごいしあわせだ!!!

わたしはコスメとかお洋服とか美容系グッズが大好きなんですが、ここ数年はそこに割ける金額ってかなり控え目だったんですね。

プチプラも好きだけどやっぱりちょっと良い物も欲しいじゃないですか。でもチケット代と飛行機代とホテル代、更には遠征先でかかる諸々の費用を考えると毎回毎回デパコス買うなんて余裕ない……ブランドのお洋服予約する余裕なんて……ワンピース買うお金で飛行機乗れるもん……哀しき地方在住安月給……

 

でも今は「ふんふんこれ新作か〜良さそう〜買う♡」ってなるんですよ、4000円のリップを。20,000円のバッグを。

あんまり「普通」とか「一般的」とかっていう言葉は好きじゃないので使いたくないんですが、これって20代後半OLとしてはごくごく当たり前の経済活動なんですよねたぶん…

 

もちろんわたしは推し事に費やしてきた、これから費やしていく金額を恥じても後悔してもいないけど、やっぱこの短期間でここまでお金の使い道が目に見えて変わるとちょっと自分を省みる気持ちにもなってしまいます。

おたくだからどうとかではなくて、普通に働いて普通に生きてる普通の社会人としての常識的な思考のせいですね。

もういい歳だからそれなりに貯蓄はないと人としてやばいし、洋服にもお化粧にも年相応の落ち着きが欲しいし、いつまでも10代の学生感覚でいちゃいけないなあと改めて思いました。

 

 

状況が落ち着いたらまた現場には通います。もちろん通います。そりゃあもう何回でも。

ただ次からは今のこの気持ちと感覚無くさないようにしたいなあ。

そう思う時点で、もしかしたら…を想像してしまう時点で、わたしにかかっている推し至上主義の魔法は既に解けかかっているのかもしれません。悲しい気もするし、真っ当なことのような気もする。

どちらにしても推しのことは大好きです。また湯水のようにお金を使えるようになればいいなとも思います。わたしの心情的にではなくて、社会情勢的に。

いつも笑顔が素敵だね推し…髪そのまま伸ばしてくれていいよ…そして願わくば黒髪が見たいよ…髭も似合うよ…

 

まあすぐヒートアップしてまた宵越しの金は持たない女になる可能性も否めないけど、推しに引かれない程度にはしっかり両足を地につけて生きていたいです。

 

そんな感じ。

今年は甲子園もないし、オリンピックが延期になった関係で各スポーツの公式戦もないし(どっちにしろコロナの影響で試合してなかっただろうけど)、何をして過ごせばいいのか本当に困惑しています。

舞台もない、スポーツもない、外出もできない、おしゃれしても意味のない夏。

退屈で寂しくてダメになってしまいそうですが、どうにか耐え抜きましょう。何か一つでも良いニュースのある季節になりますように。

では。

 

 

自粛するおたくと甦るおたくのはなし

自粛自粛の日々が続いていますが皆さんいかがお過ごしですか?

わたしは瞬く間にほぼ全ての現場がなくなり正しく虚無といった感じです。しくしく。

引きこもりの毎日だからこそここ最近の心の機微を書き残しておこうと思いました。つらつらっと記録しておきます。

 

 


知人が舞台沼に舞い戻っていた件

唯一繋がっているアカウントを久々に開いてみたら偶然目にしました。散々コケにしといて結局戻ってくるんかい。

まあ何の連絡も取りはしないし、仮に取る必要があったとしてもわたしはもう自分を殺してまで相手に合わせたいとは思わないので見なかった振りをしています。

別に彼女が戻ってきてはいけない理由があるわけでもないですし、わたしがそれをとやかく言う権利もありません。でも何でしょうか、このもやもやは。あんなに人の目の前でdisりまくってたのに、何という変わり身の早さか…って、正直引いちゃった。

ただ単に舞台おたく上がってたけどまた戻ってきたよ〜なら何とも思わないしおかえり!って言えたんですけどね。

如何せんわたしは共通して好きだった作品を突然「こんなもん興味ないんだわ」とボロクソに言われたり、「まじでいらないこんな物買わなきゃよかった」と2人で必死に集めたグッズをぞんざいに扱う姿を目の当たりにしてるので…

正直ファンの心模様なんてその程度のものだと思ってるので別に構わないんですよ。熱しやすく冷めやすいってタイプの人も結構いると思いますし。わたしだって急激にハマったかと思いきやすぐ冷めたコンテンツたくさんあったし。

それに彼女がミーハーなのは知っていたし、あちこちに手を出しては数ヶ月で話題にも挙げなくなる様を幾度となく見てきていたので、きっとすぐに舞台に帰ってくるだろうとは思ってました。でもいざ目にすると、うわ…ってなっちゃって、わたしもまだまだ青いなと思いました(?)

 

ただ理解ができないんですね、わたしなんかからすると彼女がやってることって「ボロい、こんなんもう使ってられんわ」と言って雑巾にしたタオルを、数ヶ月経って「そうそうこれお気に入りなんだよね〜〜〜一軍にしよ!」ってお風呂上がりに使ってるみたいに感じるんです。ちょっと違うかもだけど。

それに何より、仮にも一度好きになったものをこんなもん呼ばわりしたり、まだそれを愛している人が目の前にいる状態で「まじどうでもいいから」と扱き下ろしたりするのって、わたしからすると信じられないくらい心の無い行為だと思ったし。

そのうえで自分の調子良くなったら大好きアピールって、なんか極端に言うとDVする人と同じ思考なのかなとまで考えてしまいました。分かりませんけどね。

 

わたしはあまり人に執着がないので疎遠になった人のことを思い返すことは基本ないのですが、何か今回ばかりは…まあ最早赤の他人なのでどうでもいいですが…

 

でもきっとまたこの人は同じようなことするんだろうなと思うと、居た堪れない気持ちになります。

そんでもって、こんだけもやもやする理由ってわたしはこれまでの彼女の言動を認めきれていないし、それだけ舞台や推したちの作り上げたコンテンツに対して思い入れがあるからなんだろうなと思いました。だからやっぱりまだまだ青二才です。願わくば心穏やかな友達がほしい。(切実)

 

 

 

ファンの無力さを考えた件

公演中止が重なり複数件の払い戻しをしたのですが、現場がないとお金も払えない応援してますと伝えることもできない、うわあわたしというファンの存在はなんとちっぽけなものか…と思いました。

もちろんおたくとしてお金の使い道はたくさんあるので、これはわたしの主観にしか過ぎません。異論も反論も100%認めます。今はクラウドファンディングとか基金とかたくさん乱立してますしね。

ただわたしはいまこの瞬間!!!推しに!!!推しを支えている事務所の方々に!!!お金を払いたい!!!(大声)

 

事務所ごとにクラファン立ちあげるとか、もういっそ株売ったりしてくれたりしないでしょうかね!?!?めっちゃ支えたい。めっちゃ払いたい。自分としても出資の趣旨が明確になるし。でもこの思想って結構限界オタクそのものですよね…知人に話したら「やっばwww」って言われて片付けられました。知ってた!!!

 

ということで、やっぱりおたくがおたくとして真っ当に主催者側に対価を支払えるのは結論として現場に纏わる出資が軸になるよなあと思いました。

 

コロナが終息してまた劇場の椅子に腰を下ろせる日が来たら、心ゆくまでおたくを楽しんでお金を使いたいです。

なのでわたしは賛同できるところにはお金を出しつつ、それ以上に、いつか来る観劇日のためにしっかり準備をしておきたいと思います。

わたしにとって観劇はライフワークで、観劇という趣味があったから、推しと出会えたから、今日まで前を向いて頑張ってこれたから。

何があっても舞台演劇というコンテンツを手放したくありません。これまでわたしを支えてくれていたのは推しの笑顔と劇場の空気、緊張感だったんだなあって改めて実感しました。早く劇場で推しに会えますように。

 

 

 

生配信についてもいろいろ思ったことがあるので、また近いうちに更新しようかなあ。

 

自粛期間つまらないし退屈だし苦しいですが、こんなときこそお家でお酒でも飲みながら舞台の円盤みたりして過ごしましょうね。1人でも楽しいです。

皆さんどうぞお元気でお過ごしください。

 

★暇なので作っただけだったTwitterのアカウントをちょくちょく動かそうかなと思っています。こっちよりもっと緩い話ばっかりするつもりです〜

ねむりねこ (@sleepingcat_222) | Twitter

 

おたくとQOLのはなし

さて、おたくとはどうあるべきか、みたいな話っていつもどこかで盛り上がってますよね。

精神論的な話題と金銭的な話題とで分かれてきますが、最近いろいろと思うところがあったのでちょっと自分の考えを書こうかと思います。

 

飛ぶおたく、飛ばないおたく

だいぶ前のツイートですが、これ率直にすごいなと思いました。

でもそれは感嘆ではなくて、1ファンにそこまでの原動力を与える推し側の魅力が凄いなあということと、そこまでやっちゃうなんて凄まじいなというちょっとした畏怖だったり。

 

地方に住んでいるおたくの中にも、遠征をするおたくと遠征をしないおたくの2種類が存在しますね。(端的に”飛ぶおたく”と”飛ばないおたく”という表現を使いたいと思います)

わたしは飛ぶおたくなので、もしも画像のツイ主さんとお話をする機会があったならば、境遇という面では共感する部分がたくさんあるかもしれない。

しかしながら自分の身をすり減らしながら推し事をするのはわたしにとっては全くしあわせなことではないし、長く推し事を楽しむためにこそ自分を大事にしたいので、こんなにきつい体験をしてきたぞ!って声を大にする姿勢に関しては同意できないなあ。

推しからしても、自分のためと言いながら多くの犠牲を払い続けるファンの姿を見るのはそんない嬉しいことじゃないような気がします。でもこのツイートみてるともしかするとそうとも限らないのかも知れませんね…難しい…

 

それに、飛ばないおたくが推しを愛してないとは言い切れないと思う。前にも書いたけどどうしても遠征費用を工面できない立場のファンも必ずいるし。

 

飛ぶおたくがいう

「都会に住んでる人には分からない苦労をたくさんしてるんだ!」という言葉も

飛ばないおたくがいう

「地方民は遠征費用かかるから大変なんだ!」という言葉も

どちらの重さもよくよくよくわかります。両方の愚痴りたい気持ちもわかります。

でも本当に、どっちにしたって、これに関しては好きになった自分の責任なので仕方ないです。

 

もちろん何かを削ったとしても遠征したいって気持ちは、シンプルに愛ですよね。社会的な倫理を守った上で本人が納得してるなら他人がそのことを馬鹿にしたり笑ったりする義理はない。

そして自分で選んで好きになって自分で勝手に始めてる行動なので、人並外れた行動力があろうが、驚くような節約をしていようが、他者がそれを褒め称える必要はない。

逆にいえば、趣味よりも自分の実生活を大事にしている人のことを馬鹿にしたりとやかく言う必要も全くないですよね。何にも悪いことしてないですもんね。

 

でも良し悪しではなく、大半の飛ばないおたくにとって”自分の生活>推し事”なのは間違いないだろうから、前者ほど愛が重くないって言われても仕方ないなあと思うし、これが悔しいなら、相手と張り合いたいなら、やっぱり行動するしかない。おたくも結構シビアですね。

 

どちらにせよ、その選択をした本人が”正しい選択だった、後悔していない”というのであれば、他の人が口を出す必要もないと思います。

ただ、衣食住や身の安全性を切り捨ててまで趣味に費やすというのは、一般的にあまり胸を張るようなことではないのでは…これは反面教師な点でもありますが。

 

結局ファンはどこまでいってもファンなので、愛し方もその表現の仕方も人それぞれでいいと思う。いくら使うようになってからがファンって基準があるわけでもないし。

 

どっちにしたって結果的に(目に見えたとしても、見えなかったとしても)ジャッジするのは推しなので、やっぱり自分のできる限り、納得できる範囲で楽しいと思える推し事してれば、誰かの推し事を気にすることはなくなるんじゃないかな。

どういう風に推せば推しのためになるのかなんて議論したところで、推し自身が「こうしてください」って発信しない限りは机上の空論に過ぎないし。

 

 

推しへの愛が足りないとは

でもまあ本当に、遠征費もったいないんだよって気持ちはよく分かるんですよ…チケット代より交通費多く払ってるとか通常運転だしね…。
それでも「今年は上京する」「いや来年こそは」「何年後までには」って言いながら全然行動してなかったりする人もいる。わたしとか、わたしとか。
上京したいんですよそりゃもちろん。住んでたら交通費の分チケットに回せるし、仕事終わりに観劇とかいけるし、都心に住んでればもっと参加できたであろう現場たくさんあるし。

でも地元好きだし家族も友達もいるし、何と言っても今の状況結構満足できてるしなあ。


わたしはちょっとひねくれてるので、地方に住んでることを自分の中でブランド化してる部分があって。
推しにアピールしたことも同担に伝えたことも一度もないけど、
”地方に住んでて、毎回飛行機に乗ってまで推しに会いに行くわたし”
って結構好きな自分の姿なんです。おお、やってんな~!って思う。仕事のモチベーションにも繋がるし、午後休とって飛行機乗って日帰りで遠征したりとか、現場終わって朝一便の飛行機に乗って職場に直行とかいろいろやったけど、その都度湧いてくる「やり遂げたー!」って達成感は割と自分の糧になってるし。

逆にこれが東京に住んでて、ちょっとした空き時間とかにぽんぽん現場入るようになったら、仕事に対してのやる気とかなくなっちゃうんじゃないかなって感じたりもしちゃう。
更に翻って考えると「飛行機に乗ってでも会いに行きたい推し最高だな」って実感するのが推し事のモチベーションあげてるとこもある。

 

地方に住んでたけど推し事のために上京したって人は探せばごまんといるはずなので、多分そういう人から見たら、地方に住んで満足してるわたしは愛が足りない人なんだと思う。
そう思われるならそう思ってもらって構わないし、その意見に関して特に否定もしないけど、わたしはわたしなりに、今のわたしにできる最大限の労力と時間とお金を費やして推しを推してるし、「誰が何と言おうといまのわたしは誰より推しのことが大好きなんですって胸張って言える。

だから馬鹿にされても構わないし、仮に「愛の足りない遠征民(笑)」って言われてたとしても気にしない。わたしはちゃんと推しのことが大好きだし、ちゃんと推しを推してる。


こういう状況を誰かに馬鹿にされたときに

「悔しい」

「何も知らないくせに」

って思う人は、相手の意見がどうこうとか相手の言葉がどうこうではなくて、単純に自分自身の行動に自信が持てないんじゃないだろうか。だから指摘されたときに言い返したくなる。

 

結局応援なんてエゴなんだから、自分が満足できるかどうかが全てじゃないかなと思います。もちろんルールを守った上でのことですが。
欲を言えばキリはないから、どこで折り合いをつけるか、どこまでやれば納得できるかを自分で決めちゃうしか着地点はないですよね。自分が納得できるとこまで持ってけるかどうかは自分の努力次第で、他人の言葉も、いま住んでる場所も関係ないし。

 

例えば推し自身が公の場で

「俺のこと好きなら俺にたくさん金使って!」

「月々収入の半分くらいは貰わないと俺のファン語る資格ないから!」

って発言をしているのであれば、そりゃあその界隈のヒエラルキーの上部は何十万何百万の資金を回す人たちで埋め尽くされるんだろうし、そういう明確なファン基準が設けられてるのであれば”貢がない=愛がない”ということになって然るべきだけど、そんなこと公言する推しってそうそういないですよね。

ということは、レアなケースを除いて、推しへの愛情を量っているのは推し自身ではなくて、自分と同じ、ただの1ファン。みんな個人の主観で互いをジャッジしてる。わたしもそう。

自分が納得できるやり方で推しのことをちゃんと応援してるって胸張って言えるなら、他人の意見なんて気にする必要ない。言われて気するならお金の使い方見直せばいいし、腑に落ちなかったからって食って掛かる必要もない。

どれだけ互いに評価し合っても、推しから見ればきっとみんな同じように、一律にただのファンに過ぎないように思います。

 

 

おたくQOL

もちろん、全然現場いかない、掲載誌も買わない、もちろんFCにも入らないって人と

遠征どんと来い、雑誌も円盤もコンプするしFCは継続○年目!

って人とを同等に評価するのはナンセンスだし、わたしだって自分より極端に費やしてないなって人と一括りにされるのは嫌だけど、上に書いてきたような場面で同じ土俵に立つもしくは立とうとするのは"絶対行動しないマン"ではなくて、お金と時間を費やすことが身体・精神的負担になってしまう状況下にある人ですよね。

だったら遠征はしない、観劇回数を減らす、そのうえでお金を貯めるって決めるのは全然悪いことじゃないと思います。むしろ普通。

人生の中で趣味の割合がどれくらいを占めるかって人それぞれ違うじゃないですか。

趣味が人生のほぼ半数を占めてて、趣味があるから生きてるんだ!って人も、仕事とか家族との時間とか充実してることが諸々あって、趣味はその隙間を埋める程度で十分です!って人もいる。

前者からみた後者は「なんだおたく舐めてんのか」って感じだろうし、後者からすれば「前者なに…?たかが趣味にそんなに本気出すなよ…」って感じだと思う。それぞれQOLの基準が違うから当たり前なんですよ。自分の常識は他人の常識ではない。

 

例えば趣味費用の補填の為に苦肉の策で夜の仕事を副業にした友人がいたけど、わたしは正直ここまでやる必要もないんじゃないかなと思ってみてました。そうまでしてでも推したいって気持ちもわかるけど、体とか心がやられるようになってきたらもうそれは無理をしてるってことになるし。本人が決めたことだし、それで一時でも幸せを感じるなら、それはそれで彼女の"今を生きる術"に繋がるんだろうと思って、ただただ見守るしかできなかったけど…いまは後悔してます。何であそこまでやってたのかなーってボヤいてる彼女も、ちゃんと意見しなかったわたしも。

キャパを超えた無理を続けてると、やっぱり人間って欲が出てくるから、

”こんなに推しの為に頑張ってるんだから何か報いがあるかも”

って思い始めたりするし、こうなるとちょっと危険ですよね。

無理ない範囲で(まあ相手は仕事なので多少無理してくれた方が嬉しいときもあるだろうけど)一定数のファンに、普通に、平均的なレベルで応援された方が嬉しいんじゃないかなあ。無理を重ねて自分を応援してるファンって、推しからすると有り難い気持ち以上に申し訳ないの気持ちにさせてしまうような気がする。これもわたしの想像にすぎないけど。

おたくがおたくをしている理由は、「推しのため」ではなくて「推し事のため」じゃなきゃいけない。この一文字の差ってすごい大きいと思う。

だからやっぱ、自分の中で線引きが必要なんですよ。

”これは諦められる、これは諦めたくない”とか

”これは同担に言われても目を瞑れる、これを言われると腹が立つ”とか。

自分の中に基準があると自分にとっての推し事の指針がどんなものかが見えてくるし。それが分かれば、それを全うするための道筋が立てられるじゃないですか。そうなればみんなハッピー。

マナーと倫理を守ってさえいれば、自分の思うがままに推せばいいんですよ。going my way,おたく。みんながみんな、わが道を行くおたくでいいじゃない。マナーと倫理さえ守ってれば。

 

 

結論:世界はそんなに優しくない

でもやっぱそれなりにお金かけてる人は、上にも書いたみたいに”何かを犠牲にしてでもこの人を推したい!”って気持ちの強い人だし、そういう人がたくさん存在する状況で
「わたしは自分犠牲にしてまで推しにお金かけたいと思わないんですよね~笑」
っていうのはちょっとこう、思いやりにかけると思うし、反感買って仕方ない。


それが自分の信念なら曲げる必要はないけど、わざわざ言葉にする必要もないし、言い方次第ではそれは相手を否定する言動になりうるし。そこの配慮ができないのは、おたく云々以前に人間性だったり性格の問題かもしれないですね。逆も言えますが。

「それっぽっちしか使ってないのにファン名乗るとか必死に推してる人馬鹿にしてんの?」って、言いたくなる気持ちはわかるけど、みなまで言わずとも大衆論的に”お金を積む=愛が強い”っていう基準は存在してるから、憤らなくてもあなたが頑張ってるファンだということはきっとちゃんと推しにも周囲にも伝わってるよ。たぶん。

とりあえず人と比べるのやめて、もっと推しが好きって話しようよ。今日も推しは格好いいじゃん。わたしは同担拒否だからぼっち極めてますけど。

 

結局同じ人を推してるおたく同士でも、それぞれスタンスが違うから分かり合えないし歩み寄れないんですよ。お金の価値なんて人それぞれだし、チケット一枚の重みも人それぞれだし。

みんなが同じだけお金使って同じ回数観劇するようになったら、「チケットの当選確率が高くて運に味方されてる私の方がファンとしては格上!」っていう人が出てくるだろうし。

 

最終的に何が言いたいかっていうと、

喧嘩の種になるから他人に干渉するのやめよう!?!?!?

 

みんな笑顔で、それぞれ知らん顔して、推し素敵だなー好きだなーってだけ考えて、みんなほわほわしながら生きていけたらいいのにね。

 

感染症の影響でエンタメ業界も悲鳴あげてます。皆さんとわたしの推しが、どうか元気に、笑顔で、両の足でしっかりと板の上に立つ日が1日も早く訪れますように。では。

 

 

 

いいおたくをやめようと思ったはなし

あけましておめでとうございます。(今更)

今年も推しのことが大好きなわたしです、のんびり気が向いたときに、いろいろ書き残して行こうと思います。

 

 いいおたくでいること

新年から不穏なタイトルでそこだけ読むとアレですが、 推しを推すことをやめたわけでも、 これからはどんどんマナー違反しちゃうぞ! と宣言しているわけでもありません。 
ただ、自分がこれまでに推し事をするなかで作っていた”いいおたく像”を壊して、今までとは違った"いいおたく"になりたいと思ったみたいな感じです。
誰かの目に留まるかもしれないし、いつかまた自分が悩んだ時の指標にしたいので、こういう記事を書いておきます。

 


 いいおたくとは

そもそもわたしが考えているいいおたく像には

  • ルールを守っている
  • 推しに嫌がられない
  • 穏やかな気持ちで推し事をしている
  • 推し事を義務のように捉えていない
  • 実生活と推し事を両立している

これくらいの柱があって、二つ目に関しては自分ではわからないけれど、ほかの部分に関しては貫いているつもり。
ただ、上のことを追求しすぎて勝手に息苦しくなってきたので、行動を見直しました。
”ルールを守っている” という点に関しては徹底されていて当然なので、これを変えるつもりは当然ありません。ので触れません。

 

お金のはなし

推し事の費用について、これまで凄くストイックでした。
直接的に推し事にかける費用確保のため、推し事を楽しむためには節約あるのみと思っていたので、推し事以外での出費を極端に削っていました。特に遠征時。

わたしは地方民なので、 現場のたびにそれなりの額の交通費と宿泊費が嵩みます。でもそれは自分が好きでやってることなので自分の責任 。
だからといっては何ですが、交通費も宿泊費も、超切り詰めてました。時間と心身の平穏を捨てても1000円安いほうを選ぶみたいな。
それに、遠征は推し事のためにお金を払うもので、遠征中に推し事以外の予定を入れるなんてもってのほかとすら思ってたんですよね。


もちろん削れるとこは削らなきゃっていう気持ちは変わってなくて。
でも上を求めるとキリがないのと一緒で、下も削り出すと限りがないんですよ。だからコスト削減に意味を見出しすぎてそのうち遠征はきつくて当然!って感じになって。
たぶん"自分のことを多少削ることで推しにお金を回せるならそのほうがいいおたく像に近い"と思ってた気がする。
だから推しに会えるのは当然嬉しいんですけど、心から楽しめてるかというと微妙なんじゃないかと、昨年中ふと考えました。


それで思い切ってFSCを選ぶ回数を増やしたり、安くてもちゃんとしたホテルに泊まったりするようになったら心の余裕ができて、それが伝わった影響なのか遠征先に住んでいる友人が飲みに誘ってくれたり、自分からも声をかけるようになって、久しぶりに遠征そのものを心から楽しいと思えるようになって。


もちろん今まで削っていたコストが増してるので、費用面を考えると多少きつい部分もありますが、せっかく推しと会える貴重な時間を楽しいと思えないとか、稀にしか会えない推しに疲弊しきった顔を見せるだとか、考えてみればこんな悲しいことはないのでは…と思うようになったので、これに関しては”費用は極限まで削る” という自分ルールを撤廃して正解だったなと。


わたしの場合”推し事=遠征”という感じなので、遠征を楽しめてこそ、朗らかで明るい” いいおたく”でいられるような気がします。
それに上にも書いたように遠征を通して友人たちと過ごす時間も増えたし、そういう面では"実生活との両立"という部分も、より理想に近いものになっているかなと。

 

趣味ために節約しすぎて精神的な余裕のなさで人に迷惑をかけるのは人としてちょっとアレだし、推しを自分に置き換えたとき、心身を削ってまでがむしゃらに自分を追いかけているファンよりも、自分をちゃんと大切にしながら程よい距離感を保っているファンの方がいいのかなと思います。

自分を追い詰めながら推しを推してるおたくは、あんまりいいおたくではないのもしれない。あくまでわたしの考えですが。

 

考え方のはなし

前に書いた記事で"推してるからって推しのすべてを認める必要はない"的なことを書きました。実際のところ、これを書いてる時点ではわたしは推しの仕事や発言や行動のすべてを心から認めていたんですよね。

「まあわたしは推しのこと手放しで認めてるしこれからもそんな感じだと思うけど~」

ってたかをくくっていたからこういう風に書けたんだなと…シンプルにいうと、逆説的に"推しを全肯定できるほうがいいおたくに近い"と思っていたんだと思います。


最初にも書きましたが、推しを嫌いになったわけではありません。変わらずめっちゃくちゃ好きです。もう超好き。ほんっとに好き!!!
でも去年、初めて推しの仕事を喜べない自分と出会って、自分でも驚くくらい心がボロボロに壊れてしまったことがあって。
冒頭に書いてることは本心だし、そのときだって"何だかこの仕事は素直に喜べないぞ"と思いつつ、"まあわたしがどう思おうが推しには関係ないし…"って気持ちに折り合いを付けようとしたんですが、やっぱりまっすぐな気持ちで応援できないことがすごくショックでした。
"推しの仕事が嫌"ではなくて、"推しの仕事を素直に喜べなかった自分が嫌"でした。
いまは全然どうってことないんです。ときどき、"あ、やっぱり嫌かも…"と思う時もありますが、すぐに忘れてしまって"推し最高~~~すき~~~!"って言ってる。


なんで立ち直れたかって言うと、こうやって初めて(自分のことでもないのにこんな表現をするのは変ですが)挫折みたいな気持ちを味わって心が折れたことで、逆に推し事に対して"仕方ない"と思えるようになったからで。
嫌だと思ったって決まったものは仕方ない、どうせ見に行くんだから嘆いたって仕方ない、好きなんだから仕方ない…って、いろんなマイナス思考が浮かんでくるたびに"仕方ない"で乗り越えられるようになった。
わたしは推しのおたくで推しのことが大大大好きだけど、おたくでいる限り推しの人生の傍観者でしかないんだから、そんなに気張って"嫌だ"とか"寂しい"とか、はたまた"そういう風に思っちゃいけない"みたいな気持ちと向き合う必要もないのかなあと。昨年の言葉がブーメランになったみたいです。


こうやって書くと推しから一歩退いたような感じですが、気分的にはその逆。
推しに対してこういう風に感じる自分もいるんだなって分かって、前よりもおおらかな気持ちで推しを好きでいられるようになったというか。
わたしは推しを神格化していないし、ちゃんと意思を持って楽しんでるんだなって気付けたのは割とありがたい出来事でした。
"推しの全てではなくて自分の全てを認めることで楽しく推しを推している"状態が、今のわたしにとってのいちばん”いいおたく像” に近いのかもしれません。

 

きもちのはなし

いつも"こんなことをしたら推しに嫌われないだろうか"とか"こういうことをされると推しは本当は嫌な気持ちになるんじゃないだろうか"と考えを張り巡らせています。

なんならふとした拍子に"推しにとって生理的に受け付けない人間とかだったらどうしよう"とか。正直これを考え出すとめっっっちゃめちゃ疲れます。

何でこうなるかって言うと、わたしは自分のことが好きでない。どれだけおしゃれしてても綺麗にメイクしてても不安になる。自信がなくて。

だからより推し事を楽しむために自信をつけてやろうと、これまで以上に自分の見かけに気をかけるようになりました。

これはお金のはなしにも繋がるんですけど、やっぱちゃんとした人()でいるためにはそれなりに費用も時間もかかるんですよね。

だから例えばこれまで10回まわしてたガチャを5回で我慢して浮いたお金をこれまでの美容費に上乗せするとか、そういう単純なシフトチェンジをするようにしました。

きっと"推しはお前のことなんて見てねえよ自意識乙、デパコス買うよりガチャ回して推しに金払う方がいいおたくだろうが"って考えの方もいて、それも当然一理あって。

ただ上にも書いたように、自分を大切にできていないファンってあまり推しにとって嬉しい存在ではないような気がしています。

最低限すらお金を落とさないのは正直あんまりよくないおたくだと思いますが、それと同じくらい、オドオドして自信がなくて"好きでごめん…"って思ってるようなこれまでのわたしみたいなおたくは推しにとって結構嫌なものだったのでは…と凄く反省していて、まあこれも主観でしかないので正解はわかりませんが…

だから根拠のある自信をつけることで、大丈夫推しに嫌われるような要素はないぞ、胸を張って顔をあげて推しを見よう!としゃんとした気持ちで会場に入れるようになったし、推しを目の前にして極端に申し訳ない気持ちにならなくなったし、メンタル的にとても"いいおたく"でいられてる。

"生理的に受け付けない人間だったらどうしよう問題"に関しては常に拭えない不安ですが、推しに聞かないとわからないし聞いたってわからないだろうし。

だからもう単純に、考えるのをやめようと努力しています。勝手に考えてへこまない。

わたしは所詮地方に住んでるいちファンで、推しに好かれていようが嫌われていようがわたしはこれからも推しのことが大好き!それでいい!

って多分普通のメンタルのおたくにとってはごく自然な発想だと思うんですが、ここにいたるのにすごく時間がかかったんですよ…でも長い時間をかけて少しだけ心が強くなって、これまでよりも自分の思う"いいおたく"に近づけたのかな…うん。

 

 

穏やかなおたくでいたい

ここまでつらつらと書いて、やっぱりわたしは穏やかなおたくでいたいんだなと思いました。

趣味*1最優先で生きてはいるけど、それに生活のすべてを乗っ取られてしまうのはちょっと怖い。

推しへの好き~~~!って気持ちも推し事に対する熱も一切削るつもりはないけど、のめり込みやすい性格だからこそ、ときどき冷静になることも必要。

自分のために、推しさんのお仕事の邪魔をしないために、やばいやつにならないように、今年ものんびりおたく業に励みたいと思います。

わたしにとってもみなさんにとっても、今年の推し事がしあわせなものでありますように!では!

 

*1:推し事

人生が変わった一年のはなし

2019年は、人生観の変わる1年だったなあ。

推しは割と社会的な問題に触れる作品に出演することが多く、その都度、ああ社会調和って大事だなとか、命って尊いなとか、まあ今年に限らず推し事を通していつも心を悔い改めてるんだけど、今年は特に直接的な表現の多い、苦しい役回りが多くて。
だからいつにも増して、自分の思考を深く深く掘り下げて1年を過ごしました。

観劇を通じて知りえた知識とか感情って、割と自分がもともと持ってる思考にプラスで積み重なっていくものな気がするんですよ。
もちろん”この作品を知って考え方ががらっと変わった”っていうのも経験してきたけど、これまでどっちかっていうと感情蓄積型だったから”この作品を観てこう感じた”っていう客観的(客に違いないから当然だけど)な感情論止まりで。

でも今年は、

”この作品を観てこう感じた”

”じゃあこの感情をどういう風に自分の糧にしようか”

ってふと考えを巡らせることが多かったし、実際に行動に移したこともあったので、今年の観劇は非常に身になるものばかりだったなと。

直接的な表現は避けたいから伝わりづらいけど、そんな感じ。

 

 

身内の若い死も経験した。

 

予想も覚悟してない訃報って初めて経験したんだけど、本当に本当につらくて。

自分がここまで泣くとは思わなかったし、こんなに人の死を受け入れられないのも初めてだったし、紛れもなくわたしの人生観が大きく変わった出来事になった。

 

死は無条件に訪れるし常に不条理なものだって心のうちでは分かっていても、やっぱり受け入れられない。本当に突然降りかかってくるんだよなあって。

これまでそういうのって、自分とは遠くかけ離れたものだと思ってた。同じような実体験はたくさん耳にしてきたし、それこそ観劇を介して自分のことのように悲しく思ったりしていたけど、わたしの愛しい人たちはこれからも元気で、一定のバイオリズムで生きて、順相応に終わりを迎えていくんだって疑う余地もなくそう思ってたから、本当に頭を銃で撃ち抜かれたみたいな衝撃だった。

人は本当にあっけなくて別れは突然やってくるんだって、知識としては頭にあったけど、結局自分の体験をもってしか理解しきれないんだよな。

それが何だか情けなくて、ああもっとちゃんと会っていっぱい話してたくさん思い出作ればよかったって、今になって後悔ばかりしてる。

ずっと憧れの対象で、優しくて逞しくて面白くて、わたしが面食いなのはこの人の影響なのではってくらい格好良くて、本当にだいすきな親戚だったから、なおさら。

 

 たぶんこれから時間が経つにつれてもう会えないという事実を少しずつ受け止めていくんだろうけど、きっと死が身近な出来事になる年齢を迎えるまで”存在しないこと”への違和感は消えないし、思い出すたびに胸がずきずきするんだと思う。みんながよく言う”心の中で生き続ける”っていうのは、そういう意味なのかな。

 

 

死が無作為に彼を選んだのだとしたら本当にこんなに悔しく腹の立つことはないけれど、これから同じことが自分の周りで起きる可能性はもちろんあって、わたしはもう二度と後悔したくない。

ここでは推し事に限って書くけれど、慶弔問わず推しに何かがあったときファンへの報告は大抵一番最後で、知った時にはもう手遅れということが大いにあり得る。

近しい身内だって突然会えなくなるのに、それが芸能人とファンにまで距離が開いてしまったら、ねえ。

そう考えると、普通に現場に行って推しに拍手を送ったり、推しから笑顔をもらったり、狭い空間で同じ時間を過ごせることって、限りなく奇跡に近いと思う。

だから一回一回をもっと大切に噛みしめて、恥ずかしくても、もしかしたら迷惑かもしれないけれど、もっとちゃんと「応援してます」とか「あなたを知れてよかったです」とか「すきです」とか、気持ちを自分の口で伝えておきたいなとしみじみ感じてる。レス欲しさではなくて、自分の気持ちを胸の内に残さないために。秘めた思いって素敵だけど、やっぱり口にしなきゃだめなんだよね。

 

”お前が無駄にした今日は、昨日死んだ誰かが死ぬほど生きたかった明日だ”とか

”死んだ人の代わりに頑張って生きるんだ”とか

そういうのあんまり腑に落ちないというか、何となく煙たく思ってたんですよ。誰かの死とわたしの生き様を無理やり結びつけるのはやめてよって。

でもやっぱ言い得て妙なんですよね。

残された人間には残されたなりにやらなきゃいけないことを与えられてる気がするし、身を以て生の尊さを教えてくれた人にちゃんと生きてるところ見せないと、きっと次会ったときに怒られちゃう気がするし。

だからもっと楽しんで、全身全霊で、悔いなく生きなきゃいけないよね。

”どうせいつか死ぬじゃん”っていう投げやりな気持ちではなくて”命は有限で、無駄にする時間なんて1秒もない”という気持ちで、来年はもっと自分に素直に正直に、もっと有意義に生きていきたい。

 

こう考えてる時に推しの顔を思い浮かべてしまうから、やっぱりわたしは推しを推してる時間が本当にしあわせで生き甲斐なんだなあ。出会えてよかった。来年も輝く姿たくさん観に行かせてね。すき!ちなみにまだ年内現場残ってるので楽しむ!

 

わたしも、推しも、家族も友人も、この記事に目を通してくださったあなたも、どうか体に気をつけて、来年も楽しく実りある時間を過ごせますように。

 

補足。1回他の記事投稿したんですがこっち上げたつもりだったので一旦引っ込めました…スター投げてくださった方すみません…!

おたくに友達は必要かというはなし

前の記事、勢いに任せて書いたら結構いろいろ書き直したいとこあって反省中。
でもとりあえずあんまり追記せずに置いておく。なんか問題あったらこっそり変えよう。

 

そしてたくさんスター投げて頂いて感謝でいっぱい。ありがとうございます…!
はてブロのシステムがよくわかっておらず…なんか至らないことがあったら申し訳ないです。

アメブロはペタ返しとかあったけど(懐かしすぎて書きながら死んだ)はてブロはそういう習慣あるのかしら。

あと割とPV数が伸びててびっくり。そしてビビりなので既にもうちょっと怖い。
でも誰かに意見を知ってもらえるの、ちょっと気が楽になるな。

拙い個人主観だけど、それが肯定でも否定でも、見てくださった方に感謝。ありがたや。
あと敬体で書くか常体で書くかも悩み中。当分ばらつきそう。

 

推し事に友達は必要なのか

前の記事で散々同担拒否のすすめ(?)を書いたけれど、じゃあほんとに友達いらないの?っていわれると難しい。友達ほしくないわけじゃないし。 

でも必要かといわれるとうーーーんどうなんだろうなあ。ピンヒールのミュールは素敵だけど、実際に買って使うかと言われれば微妙みたいな感じ。ちょっと違うか。

 

推しの炎上でおたくをやめた友人

実はつい1,2年前までわたしにも観劇友達がいたが、彼女の最推しが炎上したことで縁が切れた。
 

彼女がどういう対応を求めているのか、わたしにはわからなかった。

もしかしたら自分と同じように観劇趣味から抜けてほしかったのかもしれないし、同時期にのんきに推し事に勤しみつつも舞台の話をしなくなった、心ばかりの遠慮が面白くなかったのかもしれない。

ただわたしは、炎上した推しとは関係のない俳優やキャラクターや作品、これまで一緒に追いかけていたものたちを急激に否定しだした彼女の変わり身の早さに、おたくとしてではなくひとりの人間として傷ついた。

 

それにわたしは「こっちはおたくやめたそうにしてるんだから、当然一緒にやめてくれるよね?」という同調圧力に流されるほど推しへの想いが薄いタイプではないし、正直そういう”察してオーラ”を面倒に感じてしまったし、何より罪のない俳優やキャラクターたち対して一方的に毒を吐き続ける彼女との食事の帰り道、”やっとひとりになれた”と思ってしまったことが引き金になった。彼女といる時間はいつも最高に楽しいものだったのでそんな風に感じたことは自分でもかなりの衝撃だったし、同時にこれはもう修復できそうにないと直感した。

 

そのまま連絡をとらなくなり、その後彼女がどうしているのかは知らない。
10年間以上も仲良しでいたって、縁が切れる時はこんなもん。

 人と人との付き合いは結局たくさんの歯車の組み合わせなので、それがたとえほんの些細なパーツでも、ひとつ噛み合わなくなると全部の動きが止まってしまう。

こんな経験するのはもうまっぴらだー!と、いま心の底から思っているので、それがたとえ同担ではなかったとしても、この界隈*1で新たに友人をつくるという行為に尻込みしてしまっている。

 

息をするように同担拒否なので当然現場にはひとりで通っているし、いまのところ単独行動に何の支障もないので孤高おたく*2を極めるのも悪くないなと感じてきているのも確か。

 

壁打ちするおたくはなし

ただ現場終わりに、

今日の推しの素晴らしさを誰かに聞いてほしい!舞台の感想を口にしたい!誰かと話したい!

と思うのは確かで、そういうときこの感情を打ち明けられる、同じくらい舞台がすきな友達がいればなあと思ったりはする。

もちろん共通趣味の友達はいるけれど電話するほどの仲ではないし、電話できるほど仲のいい友達は舞台に興味ないし。

それに、映画にしろ舞台にしろ“作品“と名のつく物は、最終的には観客ひとりひとりがそれぞれの頭の中で完成させるものだと思っている節もあるので、下手に感情を打ち明け合わないのが平和なようにも思う。

みんなが「このシーンが好き」「この台詞回しが素敵だった」くらいのライトなプラス意見だけ言い合う場ならいいけれど、わたしは前にも書いた通りマイナスに感じた部分に関しては口にしたくないタイプなので、それぞれの主観による指摘合戦みたいになってしまうとすごく気が重くなる。

そう考えると観劇を通した交流で相手に求めているのは上辺だけの付き合いなのかもしれない。「なるほどそういう見方もあるのか!」と気づかされる、自分とは異なる視点を知るのは好きだけれど、その掘り下げ方は慎重に見極めたいというか。ある程度の感想は自己完結させたいというか。

だからひとまず同じ舞台を観た人との交流は避けたいし、かといってまったく作品に触れてもいない人にわざわざ電話するほどのことだろうかと思うと躊躇してしまうので、結局自分で思い出を反芻して終わる。

 

だって例えば自分の一番の友達が鉄道おたくだったとして*3夜更けに遠征先から電話がかかってきて

「今日の電車やばかった!車掌のアナウンスの声が神!コンセントの位置が完璧!昨日乗った時よりもブレーキかけるタイミングちょっと早かったんだけど減速具合が絶妙で、更には停車位置も文句のつけようがなかった!」

みたいなことを熱弁されたとして、楽しかったんだね、よかったねとは思っても、相手の感動の尺度は理解しきれない。

お互いがその状況を楽しめたり聞き流せたり、持ちつ持たれつの関係であればいいのかもしれないけど、結局それって壁打ちじゃない?と思うと、我が身に置き換えたとき、なんかもういいややめとこ…となる。

 

 

Twitterは満員電車状態

で、結果としてTwitterを使うのだけど、ほそぼそとしか動かしていないTwitterでさえんんん?となる事が起こるので、やっぱりおたく同士の交流向いてないのかなと思う。

 

例えば俳優のイベントや公演の告知のときに「ごめんね今回は行かないの…」みたいなエアリプを書く人をみると、(この人は一体…何に対して、誰に対して謝罪してるんだ…?)と思ってしまう。直接リプで行けませんって言っちゃう人と近しいものを感じる。別に推しはあなた個人に向かって出席をお願いしてるわけではないから謝る必要全くないよ…悲しいけど…悲しいけどさ!!!

 

あとこのまえの件*4のときに訃報を大量にRTし続ける人とか、本当に人としてありえないなと思ってしまった。

そしてTLを訃報で埋め尽くしながら、「こんなときにごめん。甘いもの食べたい。」とか書いちゃう。こっちこそごめん、意味が分からない。サイコパスなの?勝手に、勝手に食べてくれ!!!謝罪も許可もいらんだろ!!!

 

もちろんTwitterは個人の公開日記帳みたいなところなので何を呟こうが何を拡散しようが自由だけれど、反面、パーソナルスペースガン無視なインドの満員電車みたいに息苦しく感じる(乗ったことないけど。)

使い方次第では全然自由に呟けないし、ちょっとした呟きが誰かにいろんな影響を与えるし、誰とでも簡単に繋がれるのは凄いことだけどそれって何となく気疲れする。

上みたいにわたしが「???」ってなるツイートだって、その人にとっては意味のあるツイートなのかもしれない。だから何にも言わないけど、一度覚えた違和感はなかなか払拭されないし、息抜きのために根を下ろした場所で苦虫を噛む羽目になるのはどうも本末転倒に思う。

 

鍵垢において無遠慮なツイートをしまくる人と繋がってしまった時は、”せっかく新幹線のグリーン車予約したのにそこに修学旅行生の団体が乗ってた”感じ。まあ普通ならありえないことだけど。静かだと思って予約したのに思ってたんとちがーう!みたいな。

同じ料金払ってるんだから楽しく過ごす分には全然問題ないけど、無遠慮に騒ぎながら「わたしたちもあなたと同じ客なんだから文句言わずに見守ってください!」と言われると、文句を言う義理はないと理解しつつもやっぱりちょっとむっとする。

 

それから「わたしは同担拒否ではないので仲良くしてください!」みたいな文章を引っ提げて突撃してくる人からは、頼んでもないのに勝手にお弁当作ってきちゃう恋愛漫画の片思いの主人公みたいな面倒くささを感じるし、「あっ大丈夫です遠慮します」っていうと大抵こっちが”心のない冷たい人”となって後々面倒なことになる。あなたの心の広さは伝わったし気持ちはありがたいけどちょっと勘弁してほしい、みたいなこっちのニュアンスは伝わらないことの方が多い。突撃された方には選ぶ権利がないのか。

「推しの今後のスケジュールまとめました!見ていいですよ!」っていわれてもご苦労様です、でもそれこっちでも把握してますので…と思ってしまうし。

 

何がいいたいかというと、みんな自由で構わないけどそれを強要されるのは腑に落ちないという話。

相手に楽しんだり怒ったりする権利があるように、こちらにも同じ権利がある。

でもその権利の主張のボーダーが微妙なのがTwitterで、最近は「ああこの人繋がらなければよかったな、でも切ると面倒だしな、気を遣いながら呟くの疲れるな」と思いながら人とのつながりを増やすことを何だか有益に感じなくなってしまった。

ミュート機能があるけれど、耳を塞いでまで繋がってなきゃいけないのって何だか変。かといってブロックしたりリムったりすると現場で顔を合わせたとき気まずいし。なんだか全然自由じゃないし、現実逃避で始めたTwitterなのに、現実と同じくらい神経すり減らしてる気がする。

好きなことを好きなようにバンバン口にして、たくさん繋がった中から自分で取捨選択ができる人はすごく有意義に友人関係を楽しんでるんだろうなあ。嫌味とかではなくて本当に羨ましい。

わたしはNOと言えないTHE日本人なので、今のところ自分の気持ちを表せず言いたいことを言えず、結果そっとスマホを置いて一人で無になるしかない。はたしてTwitterをやっている意味があるんだろうか。(虚無)

 

結論:ひとりは寂しいけど楽

こうやって書くと本当におたく交流向いてないな…?っていうか実はおたくやるのも向いてないのでは…?むしろ人付き合い自体向いてないのでは…?

上手くおたく同士で友好関係広げてる方、どんな風に知り合いつくってどんな距離感でどんな交流してるんだろう。すごく気になる。

いまのところ一気にお友達増やして推しの現場で有名になって認知されてやるぜ!みたいな野望もないし(そんな目標をたてるつもりも全くない)平和に事が運ぶならときどきちょっと寂しくなったとしても、ひとりで満足してるほうが楽だし自分に向いてるのかもしれない。

もしかしたらみんな推しバレしてない・させない状態ならすごい楽しく交流できるかも。なんにしても今の状況じゃ友だち100人できないな。(リズミカルに)

 

仕方ないから今日も円盤観ながらひとりで飲む。みなさま良い夜を。

*1:若手俳優

*2:さっと行きさっと帰る

*3:思いつく限りで一番自分とはかけ離れた趣味なので

*4:11/15のこと